モノに宿る記憶、感情について。

既成概念に縛られず、自分の美意識に忠実に生きる。連載「自由の探求者」は、そんな「自由の探求者」の思考に触れることで、既知の物事や時間の概念を軽々と超えてしまうようなイメージの力を喚起します。

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宙に浮いた額縁の写真、ガラス瓶いっぱいの蜂蜜に埋められたライト、青いマットレスとその未来が写された丸いフレーム…。美術家・磯谷博史さんの作品は、見る者の「当たり前」を打ち砕き、オルタナティブな世界の可能性を提示します。

そんな磯谷さんとSIRI SIRIの出会いは、磯谷さんご夫妻のそれぞれの母親が使っていた金のジュエリーを溶かして結婚指輪をつくりたい、という依頼がきっかけでした。SIRI SIRI デザイナーの岡本とは、建築科出身であることやイギリスへの留学経験があることなどの共通点もあり、アートとデザインという隣り合った領域でともに「ものづくり」を行う作家同士でもあります。

現在、磯谷さんの4年ぶり3度目の個展「流れを原型として」が開催されている目黒のギャラリー「青山目黒(http://aoyamameguro.com/)」にて、作品を通して伝えたいこと、物質への向き合い方、そして、アートとデザインの関係について伺いました。

岡本菜穂|NAHO OKAMOTO

SIRI SIRI 代表・デザイナー。桑沢デザイン研究所スペースデザイン科卒。2006年よりジュエリーブランド「SIRI SIRI」をスタート。建築、インテリアデザインを学んだ経験を活かし、ガラスなど身のまわりにある素材を使ってジュエリーをつくっている。http://sirisiri.jp/

磯谷博史|HIROFUMI ISOYA

美術家。東京藝術大学建築科を卒業後、同大学大学院先端芸術表現科および、ロンドン大学ゴールド スミスカレッジ、アソシエイトリサーチプログラムで美術を学ぶ。彫刻、写真、ドローイング、それら相互の関わりを通して、認識の一貫性や、統合的な時間感覚を再考する。2019年2月より森美術館で始まる「六本木クロッシング2019展:つないでみる」に参加予定。http://www.whoisisoya.com/

自分と世界

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岡本:現在おこなわれている磯谷さんの個展「流れを原型として」では、「直線的な時間と認識の一貫性への見直し」に取り組みたいと言っていますね。今回の作品はどのようなことを考えながらつくったのでしょうか?

磯谷:ぼくらがいま生活しているなかで、「時間」というと当然、時計で測られる時間のことを意味します。もちろんそれは合理的で便利なものだけど、時計という道具として使っていたものに、逆にぼくらの生活が規定されているところもあるわけですよね。そのことへの見直しをしたい、つまり「時間」という言葉がもつ意味にも、もっと種類や選択肢があっていいのではないかと思って今回の作品をつくりました。

目の前で起きている出来事を、「いつ」とか「どこ」とか、ぼくらは単位を使って把握していますが、それだけでは世界のすべてを捉えることはできません。たとえば、そこにいた人々の感情とか、その場の雰囲気とか。そうした数字では捉えられないものをどう捉えるか、ということにぼくは興味をもっているんです。もしそこに感情や雰囲気の構造があるのなら、どうすればそれを捉えられるのかなって。

鳥はどうやって自分が飛んでいるかを科学的に知らなくても、実際に空を飛ぶことができます。同じようにぼくは、感性や感覚を使って世界を捉えることを、科学的にではなく身体的にできるようになりたい。作品をつくることによって、ぼくならではの「世界の捉え方」を探っていきたいと思っているんです。

岡本:世界を捉えるというときに、「もの・空間・人」のすべてが合わさったときに完全な美しさを見出す、というのが日本の美意識なんじゃないかと思うことがあります。磯谷さんは作品をつくるなかで「日本人であること」を意識することってありますか?

磯谷:日本人だからこういうアプローチをとろう、と考えることはないですね。

どちらかというと自分のことを知りたくて作品をつくっているところもあるので、ある意味ではわがままだけれど、正直にはやっているんです。作品を発表するときに、半分くらい自分でも何をやっているのかわからないときもありますが、「これは上手に飛べているんじゃないか」というところが作品になって。それを見てくれる人と話したり、彼らの感想を聞いたりするなかで、また少し飛び方を知ることができていく。

もちろんそうした作品をつくるプロセスのなかで、ぼくは日本で生まれて日本で育っているから、この国の伝統や文化にも影響を受けているところはあると思います。ただ一方で、現代美術というのはインターナショナルであることを前提としているとぼくは思っているから、作品を作る際に意識的に日本のみから発想することはないですね。

物質と記憶

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岡本:磯谷さんの作品を見ていると、「見立て」の文化を感じることがあります。石を使って海を表現する庭のように、モノを使って「そこにないもの」を表現しているような印象がするなと。

磯谷:「見立て」によってそこにないものを見せるというよりも、すべての物質に記憶があることを見せたい、と思っているところがあるかもしれません。たとえば「花と蜂、透過する履歴」は、蜂蜜が入ったボトルの中に集魚灯を入れている、ただそれだけの作品です。この蜂蜜は決して特殊なものではないですが、ここに来るまでには花の蜜が蜂の労働によって集められ、蜂蜜となって、それが人に採取されたという履歴がある。それは言い換えれば、この物質自体に記憶があるということです。

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この作品は、光が蜂蜜の厚みを透過して外側に漏れている、という状況だけを即物的に提示したものですが、ただそれだけのことでも通常は起こらないんですよね。ある物体に別のものを見出す「見立て」という原理が、すべてのマテリアルにも「記憶」というかたちで存在する。そうした、普通には起こらない状況を通して、そうしたモノの見方に気づけたらおもしろいと思っています。

岡本:すごく共感します。

磯谷:岡本さんにつくってもらった指輪もそうですよね。ぼくがいましている指輪は、妻の母親とぼくの母親が使っていたジュエリーを溶かして再び指輪としてつくったものですが、お互いの母親が使っていたジュエリーにも、さらにその前の「記憶」がある。

岡本:金は特殊な素材ですよね。そのもの自体が貴重だからこそ、捨てられずに金としてずっと生き続けている。依頼をいただいたときに、これは金という素材特有の話だと思ったことを覚えています。

作品と言葉

磯谷:ぼくは言葉を考えるのも好きで、今回の展示のタイトルは日本語だと「流れを原型として」なんですけど、英語では「Figured in the drift of things」。これはT.S.エリオットの「Figured in the drift of stars」という言葉からとっているんです。

岡本:タイトルはあとからつけるんですか?

磯谷:あとからが多いですね。作品があって、あとから言葉をつけるんだけど、その距離感がけっこう大事だと思っていて。作品そのものを説明する言葉よりも、少し距離をあけて違和感が出るようにつけたいと思っています。作品と言葉がぴったりくっついているんじゃなくて、作品がこっちにあるから言葉はあっちかなと。

岡本:補完し合うような感じですね。

磯谷:そうですね。言葉に触れるのはイメージが沸くからおもしろい。

岡本:たしかに言葉は、イメージを喚起するツールとしてはうらやましいと思うくらい「動く」。イメージが、生きて伝わってくるものだと思います。私も、自分で書いたりすることに憧れはありますね。

モノと感情

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磯谷:いま、スイスの大学院ではどんなことをしているんですか?

岡本:いまは40の感情をかたちにする、ということをしています。「The Feeling Wheel」と呼ばれる人がもつ基本的な感情を表す図があるんですけど、それを元に彫刻をつくっています。

磯谷:マテリアルも大きさもそれぞれで。

岡本:そうですね。今回はクオリティにはこだわらずに、自分の感情とリンクしている間に素早くつくっていく、ということをやっています。

これからますますロボットや人工知能のようなテクノロジーが進化するなかで、デザイナーの仕事がテクノロジーによってより効率的に行えるようになってしまう。そうした時代において、人間のデザイナーにとっては「感性」がより大事になってくるんじゃないか、という仮説のもとにこのワークはやっていて。とくに普段のデザインの仕事では悪い感情は使わないので、怒りや悲しみ、嫉妬といった感情と向き合うための訓練でもあるんです。

磯谷:つくったモノが岡本さんの感情を表象しているとして、見る人もそういう気持ちになったりするんですか?

岡本:最初はそれを調べようとしていたんです。モノとの対峙によって、感情がひとつのコミュニケーションツールになればおもしろいなと。でも、どんな感情を抱くかは極めて主観的で、測るのが難しい。また磯谷さんも言っていたように、既存のモノサシを使って感情を測ろうとすること自体が無粋なような気もしたんですよね。

そもそも「モノに感情が宿る」という考え方自体も、八百万の神という考えをもつ日本人には受け入れられやすいかもしれませんが、ヨーロッパの人には理解し難いようで。クラスメートには「ナホイズム」と呼ばれています(笑)。

磯谷:もしかしたら岡本さんが言う「モノに感情が宿る」という考えは、ぼくが示そうとしている「物質が記憶をもつこと」にも似ているのかもしれないですね。「モノに神様が宿っていますよ」と海外の人にアニミズムのような話をしても理解されないかもしれないけど、「モノの中に閉じ込められている経験や履歴を日本人は大事にしているよ」と言えば伝わりやすいかもしれない。

アートとデザイン

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岡本:磯谷さんは、日本の大学で建築科を出てからロンドンで美術を学んでいます。私がいまいるデザイン科でもときどき議題にあがるんですけど、アートとデザインの違いはどのように考えていますか?

磯谷:あくまでぼくの意見だけど、デザインはやはり「生」に携わっているものだと思っています。かっこいい服を着て幸せな気持ちになるとか、医療機器によって病気を治療するとか。人生をなるべく痛みや恐れ、あるいは死といったものから解放するという発想のもとにあるものだと思うんです。

それに対してアートは「死」を堂々と扱う。「死」を引き受けるなかでどうやって一瞬一瞬を豊かにしていくか、という発想のものだと思います。たとえば「死をデザインする」と言われると急にコンセプチュアルに聞こえてしまうのは、死を考えること自体が普段、中心的な議論ではないからだと思うんです。

岡本:私の学校でも、叔父が病を患ったことをきっかけに、やがて訪れる死までの時間を癒やすためのデバイスをつくろうとしているクラスメートがいますが、それってかつては宗教が担っていた役割ですよね。いまの時代では宗教の影響力が小さくなっているからこそ、「生と死」というものがデザインやアートの仕事にまで落ちてきているのだと思いました。

磯谷:まさにそうだと思います。そもそもかつては「美術=宗教」だった時代があったわけで、宗教が力をなくした時代に何を描いたらいいか、何をつくったらいいかを考えたのが近代美術の始まりでした。そして理性で押し進めた近代、その反省として野生に再び目を向けたポストモダンと、人間と世界に「問題の投げかけ」をしてきた美術は、さらに「問題を解決する」ことも求められ始めています。

たとえばイギリスで最も権威のある現代アートの賞「ターナー賞」では、コミュニティ再生を手がけた建築家集団「Assemble」が受賞をしたり、今年はシリアの病院に対する空爆を、空間的な証拠として調査、解析を行うロンドン大学ゴールドスミス校の研究機関が受賞候補になったりしています。もちろんターナー賞には選んでいる側がいるので、美術を「問題を解決するもの」にシフトさせたいという考えも背後にはあるのかもしれません。

一方で、いま世界的に注目されているベトナム系デンマーク人アーティストのダン・フォーは、ベトナム戦争後に難民となってデンマークに渡った人で、セクシャルマイノリティーでもある。作品には、そうした彼のアイデンティティーが社会的なメタファーとして畳み込まれています。アーティストはいつの時代も、個人の発言として責任をもって、政治的・社会的なメッセージを伝えることができる。それがアートの、おもしろく、意味のあるところだと思うんです。

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「ものづくり」をテーマにした対談のはずだったのに、記憶、言葉、感情、アート…とあちこちへと話題が広がった取材はまるで、磯谷さんの海のように深い思考の世界の一辺を覗き込ませてもらったような時間となりました。

個展「流れを原型として」は、青山目黒で12月22日まで。磯谷さんの「世界の捉え方」に、この機会にぜひ触れてみてください。


文 宮本 裕人

写真 伊丹 豪

自由の探求者SIRI SIRI